パヴェウ・カミンスキ公開講座

管理人コラム

2004年5月17日 東京・銀座 銀座ヤマハ2階コンサートサロン
講師:パヴェウ・カミンスキ(ナショナル・エディション・ファウンデ・ション代表)
通訳:河合優子
主催:財団法人日本ピアノ教育連盟関東甲信越支部

カミンスキ みなさんこんにちは。本日は、このような素晴らしい方々の前で講義を行えることを大変嬉しく思います。これからショパンの作品を演奏する時の原典版の役割についてお話したいと思います。ショパンの作品を弾く場合、原典版がどのような意味を持つかを考える前に、まず、そもそも原典版とは何かをハッキリさせておく必要があるでしょう。

原典版とは何か

「Urtext」これはドイツの言葉です。元になったオリジナルのもの、オーセンティック(Authentic)なテキストという意味です。この言葉が初めて現れたとされているのは1880年頃と言われています。これはベルリンの王立芸術アカデミーから出された「古典音楽作品の原典版」という出版物の中にありました。その当時は色々な要素を加えたり、変更したりした出版物があまりにも多かったため、それでは良くないということでこの出版物が出ました。

この出版物は作曲家が書いた通りに印刷して出版することを目的とし、編集者が書き加えることなく、その目的を実現するために原典に関するクリティカルな技術、注解をつけるということをしました。ですから、初めから原典版というのは「注解を付けたオリジナルな資料による」という形をとっていたと言えます。

原典版を作るということは一見、易しそうに思えるかもしれません。作曲家が書いたものをただ印刷して、何も加えないで出版すればいいから簡単なことなのではないかと思えます。しかし、実際に原典版を作るという作業はとても複雑で、そんなにすぐに出来るものではなく、大作曲家の作品集の原典版を作るという仕事は十年単位、何十年もかかることもあるかと思います。

原典版も一つではなく、複数の様々な原典版があります。どれも原典版と銘打っているのに、その原典版によっても本質的なところでも違いがみられることがあります。そういうことが起こっている原因として、主に二つの理由が考えられるでしょう。

一つ目は自筆譜、筆写譜、初版、これらは、お互いに違いが見られることがあります。作曲家本人が自分の頭の中で作曲した作品に対するビジョンというものが、一度書いたら完璧であるということではなく、常に作曲家自身の中でも変更の道程を辿り、推敲などをすることによって変わってきます。ショパンという作曲家はそういった典型的な例です。その他の変わってしまう原因として、例えば楽譜に書くあらゆる要素を見落としたり、間違えて書いてしまったり、ケアレス・ミスの類いのものもあります。例をあげると、リズムや音の高さを注意が足らずに違うように考えてしまったり、筆写する人がスタッカートの点やアクセントやスラーをあったはずなのに見落としてしまったり、あるいは一旦書いたものを消して修正してあったりすると、後から見る人は分かりにくく、それらが原因で変わってきてしまうこともあります。それは、後から見た人に限らず、作曲家自身も自分は昨日はこう書いたけど、今日みたらどっちなのか分からないということもあるかと思います。また筆写する人、あるいは製版する人にしても、発想記号とか演奏に関する記号とかに限らず、小節ごと何小節も見落としてしまうということもありました。だから、意識的、無意識的、両方のあらゆる要素があったわけです。スラーの始まりはどこか、スラーの終わりはどこか、どんな音かといったことや、(線で書く図形の)クレッシェンドの始まるところと終わるところなど、そういった部分までは見る人によってはそれほど注意を払われないかもしれません。また、作曲家が五線譜に書くその段階ですでに多少変わっています。作曲家というのは二つの役割を持っています。一つは「作曲家/クリエーター(創る人)」という一面。二つ目は「作曲家/編集者(書く人)」という楽譜が現れることに関わる人という一面です。作曲家が自分のペンで五線紙に書く時点でもう、自分の思いとは違っているものが五線の上に出てしまう。そこで最初の間違いが現れるのです。その結果、どんな原典資料にも、その一つ一つに作曲家の意図したことが書かれていていたとしても、そのすべてが完全なものであるということではありません。このような理由から、どんなにきちんと書かれている思われても、作曲家の意図を完璧に伝える原典資料というのは一つも無いということになります。

原典版における違いの二つ目の理由は、その原資料が何種類かあるときに、間違いなく一つのものだけを選ぶということはあり得ません。そして、その編集の方法や考え方によっても違ってきます。原典版の編集者は、それぞれの考え方によって自分たちの編集メトードを作り、それに基づいて編集しています。そして、その作品に関する知識や背景になるものをより深く研究することで編集メトード(編集方法)というものの指示や、他により良い方法はないか考えてゆくこともできると思います。原典版を見る時に、これが一番最善で、間違いなく最終的なものだというふうに簡単に考えてはいけません。ですから、私たちはその違いのある原典版を自分で見比べてみて、どの原典版を使うのかを自分で決めなければならないでしょう。しかし、どういう判断基準を持って私たちは数ある原典版の中から一番良いと思えるものを選んでいったらよいのでしょうか。出版社の名声があるとか、見た目が奇麗であるとか、そういうことも勿論あるかもしれませんが、もっと本質的なことについて考えなければいけません。それを考える前に「楽譜」というものは何かということについて少し話してみます。

楽譜とは何か

楽譜というものは、直接聴き手に届くものではありません。楽譜は演奏する人のために作られるものです。演奏家は作曲家と共に創り出す、共にクリエイトする人です。だから原典版というのは、何よりもまず、演奏者、弾く人に向けて作られたものだということが言えます。この確かな認識というのが良い原典版を作る編集方針、編集メトードに結びつくのです。演奏者のことをどう考えて編集方針を決めるかということの最も良い例として、私たちのナショナル・エディションについてお話しします。

ナショナル・エディションはすでに40年以上仕事が続いており、何よりもまず演奏者のことを考える編集方針で作られました。そのことに貢献している、素晴らしい方がこの基本メトードを作ったヤン・エキエル教授です。このエディションについて音楽学者のジム・サムソン教授は「ショパンの現代におけるすべての原典版において最も優れているのは、ヤン・エキエル教授のナショナル・エディションである。エキエル教授の仕事というのはすべてが考えられ、正確に用いられている(雑誌ピアノより)」という評価をし、傑出したピアニストであり、自身もあらゆる作品の編集をしているパウル・バドゥラ=スコダ氏は「これまでの歴史の中で、今日のショパンの原典版の中において、エキエル教授のナショナル・エディションは最も素晴らしく、最も優れている」と言っています。

では、具体的にナショナル・エディションがどのように作られているかを見て行きたいと思います。まず、作曲家に対して忠実に楽譜を作っています。ただ、その忠実というのはどういうことかというと、単に紙の上に書いてある様々な事柄に忠実であるというだけではなく、「作曲家の思い」ということを常に考えています。作曲家が意図した事、それを出来る限り忠実に再現するよう原典版を作っています。先に申し上げたように、原典資料のうちどれ一つとして作曲家の意図が完全に入ったものは一つもありません。すべての信頼できるオリジナルの原典資料を正確にアナリーゼ(分析)して、あらゆる原典資料を検討し、特別に考え抜かれた編集メトードを適用してショパンの思っていたこと、意図していたこと、やりたかったことを出来る限り忠実に、一つだけではなくすべてを余さず活かすようにしてあります。

ナショナル・エディションは最も信頼できるという意味で理想的な、最終的な清書をした原典版であるという言い方もできるかもしれません。ナショナル・エディションの楽譜の中にある、あらゆる細かいことすべてが作曲家が望んでいたことそのものです。それは長年に渡る保証があります。それについてはナショナル・エディションの各巻末に詳細な解説が設けられており、そこで説明されています。各巻末に添付されている解説は完璧なものではなく、要約されたものになります。ただし、要約されたものであっても、弾く人にとっては最低限、大切なことはすべて入っています。抜粋、要約でないすべての解説というものは、それを必要とする人たち、スペシャリストであるとか、狭い範囲の深く極めている専門家たちの為にこちらで用意してあります。

ヴァリアントについて

楽譜の主要譜表の上についている別のオリジナルの可能性のことを「ヴァリアント」と言います。ヤン・エキエル教授も認めるように、ヴァリアント性というのはショパンの音楽における最も本質的なことです。ヴァリアントをほとんど載せていないエディションは、ショパンの原典版としては内容が足りないものと言えるでしょう。例えば現在一般的によく使われているパデレフスキ編ショパン全集であるとか、ヘンレ原典版など、ほとんどヴァリアントが載っておらず原典版としての最低限の基準に達していません。

もう一つはショパンが亡くなる前に言い残したことですが、自分が生前に出版しなかったもの、残っている自筆譜などを全部燃やしてほしいとショパンは頼んでいます。でも、その遺言は結局守られることはなく、それらの燃やされるべき数十曲の作品は、結局出版されました。ナショナル・エディションもその状況をみて出版することにしましたが、部分的にもショパンの気持ちを考えてあげたいと思い、セリエ・ベ(Series B)として、それらの作品を全部分けて、どの曲がショパンにとって本当に出したかったものなのか、どの作品を出したくなかったかをはっきり分かるようにしました。

ナショナル・エディションにおける二番目の大きな要素、それは特に「演奏者」のために作られているということです。そこで、現代の人の考えに則して演奏者が見てしっかりと理解できるように配慮されています。各巻には演奏に関する解説が準備されています。

装飾音について

例えば装飾音形の処理に関して、前打音がトリルの前に書かれていることがしばしばあります。ショパンの記譜法によく見られる例として、トリルの前に前打音が同じ音で書かれているのです。([実演]例:これはEsにトリルがあって、その前に同じ音で前打音が書いてあります。)これは何を意味しているかというと、このトリルは二度上の音から始めるのではなく、トリルの書いてある主音から始めるという意味です。ですから、同じ音を繰り返し弾くことは間違いです。例えばポロネーズ変イ長調作品53では単前打音としてEsがついています。例えば二つ付いている場合も繰り返してはいけません。滑らかにトリルを始めるという意味で書かれているのであって、同じ音を繰り返して弾くということではありません。([実演]ノクターン変ホ長調作品55-2の最初の部分)

別の装飾音として、やはり間違えて理解されがちなものにアルペジオがあります。ショパンの記譜法として左手と右手に分けてアルペジオを書くことがありますが、これは別々に弾くわけではありません。下から上へ一つにつながって弾くように意図していますが、書く時は左手と右手を分けているのです。だからこのようなケースに私たちが遭遇した場合、その時の音楽の意味、文脈、どういう流れでそのアルペジオになったかを自分でまずはよく考えてみてください。左手と右手を分けて書いてあるからといって、分けて弾かなければいけないということはないのです。例えばノクターンヘ短調作品55-1の最後の3小節の部分などがそうです。[実演]

ペダルの用法について

演奏に関する巻末コメントにはペダルの用法に関しても記述されています。なぜなら、ショパンの書いたペダルの用法というのは特殊で、現在、私たちが弾いているピアノのペダルの弾き方と、ショパンの弾いていたピアノのペダルの弾き方とではかなり違っているからです。ノクターンホ長調作品62-2の最後の部分をここに書いてある通りに弾いてみます。[実演]ショパンはこう意図していたとは考えられません。もしこのパッセージで踏み替えるショパンのペダルの指示をまったく無視してしまったらどうでしょうか。[実演]踏み替えるのを止めてみました。これではバスの効果は残りますが、踏み続けたことでピアノの中音音域が不協和音のまま残ってしまいます。ですからこれもあまり良い方法とは言えません。これは巻末コメンタリーにどう考えたら良いか、どのように解決方法が考えられたのかが書かれています。ショパンの音楽の中には、昔のクラブサンの時代にあった伝統、奏法に関する用法がみられます。ハーモニーを指で保つ、これを「ハーモニーのレガート」と名付けました。

例1ノクターン ホ長調作品55-2の第13小節から各小節の後半においてショパンがペダルをどのように変えているかを見てください。すべての小節の後半を元にどこで響きを変えているでしょうか。[実演]楽譜通りに弾くといくつかはバスの音が逃げてしまいます。単純に一小節を二回に分けて踏み直すとハーモニーの基本は守られますが、狭い二度がぶつり濁ったまま残ります。ここでショパンは「ハーモニーのレガート」を適用させていたということは疑いがないと思われます。こういう場合にはペダルが変わるところまで指でバスの音を保てば、音が逃げることもなく、透明で満たされたハーモニーが保たれます。[実演]

良い原典版を選ぶ基準

弾き手にとって本質的でもあり、興味深い要素ですが、ナショナル・エディションの巻頭(楽譜の前)にショパンが言っていたこと、手紙で書いたこと、あるいはショパンの周りの人、お弟子さんや友人が手紙に書いたり証言したりしたことを「引用文・音楽のために」として載せています。ショパンの弟子のカール・ミクリはこう言っています。ショパンは弟子に3/4拍子の音楽であるポロネーズを教える時に8分音符6つで考えなさいというふうに教えていました。ポロネーズはお祝いの時に踊ったりしますが、その特徴的なリズムはこうです。[実演]大事なことは、それを八分音符で数えることで、後半部分(4・5・6)をいつもきちんと考えましょうということです。[実演]4、5、6番目の八分音符が時間的に長めでもいいくらいです。

ショパンに限らず他の作曲家の場合もそうですが、良い原典版を選ぶ基準として大事なことは二つあります。一つは、原典と演奏に関する両方の解説がきちんとついているかどうか。二つ目はヴァリアント、作曲家の書いた信頼性のあるものを理由無く一つに絞ったりせずに複数、載せているか。この二つのことが良い原典版を見分ける大事な基準になるのです。

他の版との違い

今度はみなさんにショパンが書いたオリジナルなものなのにも関わらず、現在までナショナル・エディション以外のほとんどの楽譜で採用されてこなかった例をいくつか挙げてみましょう。

例2エチュードホ長調作品10-3。これはパデレフスキ版です。最も大きな違いというのは31小節目がa-moll、34小節目にくるとh-durになっています。ナショナル・エディションの場合(例3)、31小節目はパデレフスキ版、ヘンレ版ではナチュラルが付いていたものがcisになっています。ここでショパンははるかに豊かなハーモニーを書いています。[実演]4種類のより豊かなハーモニー、 A-durなのに内声だけがmollになり、続いて、34小節目ではh-mollになっても内声はまだ明るいというような感じです。この方がよりラインとしても滑らかだし、ロジックに考えても作品全体から見たらドラマチックな部分であり、ドラマが進んで行くという点においてもこれは理にかなっています。[実演]

度々見ることがあり、そして一番、深刻な間違いがこれです。例えばプレリュードホ長調作品28-9。[実演]付点リズムと三連符が一緒に出てくる場合の弾き方です。付点リズムの後の16分音符を最後の三番目の音と同時に弾くことはバロック時代には当たり前の習慣でした。その習慣というのは19世紀の中頃まで続いていたと言われています。古典派の時代、例えばシューベルトもショパンもそうですし、シューマンやリストもそうです。ようやく20世紀の後半になって変わってきました。ショパンの場合は、全生涯に渡って古典派の時の付点のリズムと三連符の原則を守り通しました。まずショパンの自筆譜の第一小節目を見て頂くと、単に付点のリズムの後の短い16分音符が、三連符の三つ目の音と同時に書かれているだけではなく、符尾(棒)まで(書く必要はないけど)突き抜けて書かれていることが分かるでしょう。こういう自筆譜が残っているにも関わらず、これを元に編集し出版された楽譜が例4のウィーン原典版です。[実演]

例5を見てください。これはピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11、第二楽章の一部分です。ショパンはここで自分の弟子3人の持つ3種類の楽譜にそれぞれ違うヴァリアントを書きました。それは、レッスンで使った楽譜に鉛筆で書かれたものなので、判読するのは大変でしたが、これが一番近いものであろうというものを印刷しました。ショパンの書き方というのは、時々分かりきったことのように省略した書き方をしたりすることもあります。ですので、このことについても、巻末の演奏に関する解説をご覧になって頂ければ、それ以外に考えられる読み方についての可能性も添えてあります。これは、これまでどの楽譜にも印刷されたことはありませんでした。ナショナル・ディションが初めてです。[実演]原典版から得ること

私たちはすでに良い原典版を実は持っています。ショパンの場合はナショナル・エディションがそうです。使う側の私たちはこの原典版(text)から何を得たらよいのでしょう。私たちは楽譜を読むこと、見ることで譜読みをすることと同時に譜面顔(ふめんづら)、グラフィックな要素も自分の中に取り込むことになります。その楽譜を読んで自分の中にある感受性、音楽的な力、すべてを使って自分の音楽にしていきます。演奏する側は譜読みをしたり弾くことで作曲とコンタクトをしますが、コンタクトするということは音楽そのもの以外にも、当然、楽譜のグラフィックな面ともコンタクトをしているのです。楽譜にある、スラーや、装飾音、ダイナミックの記号(強弱記号)というのは楽譜に同じように書いてあっても、作曲家によって、あるいはその作品の時代によっての違いがあり、同じように捉えてはいけません。モーツァルトのソナタにおけるフォルテと、ブラームスやプロコフィエフの楽譜にあるフォルテを同じようには捉えられないでしょう。音楽的要素、楽譜に書く色々な記号というのは時代性に加えて作曲家自身の癖とか性格も関わってきます。その本質的な要素として「様式」があります。その作曲家にどのような書く癖、習慣があるかということを知ることなしに作品を正しく理解するということは困難になるでしょう。原典版だけが作曲家が書いたオーセンティックなものとコンタクトできるのです。ただし、そういった作曲家が書いたものの性格を知るということは、大変なことではありません。例えば私たちにとって大切な人から手紙をもらったとします。その人の筆跡を見て書き癖を研究するということはしないではないですか。とにかく普通に読んで、書いてくれたことを自分で感じて内容を理解します。それを見ながら書いてくれた人なりの書き方、書き癖を自然と感じているわけです。ですから音楽も音符を読みながら、その作曲家の記譜法、記譜の習慣性といったものを意識しないで自然と吸収しているものです。実際的にtextの読み取り方として次のようなメトードをお勧めします。

第一段階:まず、その曲(作品)を自分のものにする。細かい要素を調べるのではなくまず全体を掴む。その時ベストなのはすぐに暗譜することです。
第二段階:その音楽に対する自分の気持ちを育てる。その時に自分自身の音楽の理解をそこでする。全体をどう見るかなど細かい部分もそこで見ます。楽器の場合、弾きながらそれを学ぶこともあるし、楽器を離れて自分の頭の中で楽器を弾いてみるなど両方を試みます。その時に誰か他のピアニストとかの演奏を録音したCDを聴かない方が良いでしょう。もし聴いたりすると、自分のものが育っていても、他の人のアイデアが入ってしまい、自分という唯一の個性とその作曲家とが真摯に向き合うということが妨げられる恐れがあるからです。
第三段階:自分の気持ちや感情的なものが育ってきたら、もう一度、元の楽譜(Urtext)に戻りましょう。その時に、改めて細かいところがどうなっているのか、作曲家がどのように記譜しているのかを確かめます。

大抵の場合ここで、自分では無意識のうちにやっていたことでも、自分が考えていた通りに作曲家も書いてあるのだということを知り、驚きと共に嬉しくなることも多いはずです。その時、「響き」と作曲家が記譜したものが一致します。場合によっては、納得がいかないようなところもどこかに出てくるかもしれません。そういう時は、まずは自分の思い(理解)を楽譜に書かれていることに適用させてみてください。大体においては、作曲家の考えに利がある、作曲家の書いた通りの方が良い場合が多いのですが、それでも、たとえ深く考えられ立派に思えたとしても、やはり、自分としては受け入れないタイプであったり、楽譜にはこう書いてあるけれど、私はこの場所を「こう弾きたい」という思いが心の奥底にあったとしたら、自分の気持ちに素直に弾けばよいと思います。それから、第二段階の自分の気持ちを育てるということは作品を学ぶことが終わらない限り、一生涯に渡って続くものです。機会があるごとに、第三段階に戻って楽譜にどう書いてあったかを見るようにしましょう。

原典版のグラフィカルな効果

スラーといったグラフィック的な要素とか発想標語とか、そういったものは弾き手に霊感(インスピレーション)を与えるものです。勿論ショパンの音楽に限らず、楽譜のグラフィック的な要素というのは、これを出来るようになるにはこうしてくださいとインフォメーションが書いてある意味での、取り扱い説明書のように扱うこともできます。ただし、作曲家の書く楽譜というのはInstruction(指示)だけではくてInspiration(霊感)を与えるものでもあるのです。ショパンの記譜法がインスピレーションを与えることについて、例6と例7を見てください。例6はパデレフスキ版で、例7はナショナル・エディションです。これは幻想曲ロ短調作品49の冒頭部分ですが、注意して見てみると、例6のパデレフスキ版の方は、どの音を右手で弾いて、どの音を左手で弾くかということがクリアで分かり易く書かれています。しかし、ショパン本人は記譜するときに、ただ読む以上のことを自然に考えていたわけです。音楽の色々な意味、音像がどうであるとか、その曲をどう語ってどう形作られていくかということを考えて、それがグラフィックに表れていたわけです。ショパンはどのように書いていたのでしょうか。例7を見てください。最初は音域も鍵盤の左側に偏り、その後3小節目からはそれに呼応するように、右の高音域に移っていき、音域もより幅広くなる。このような書き方であれば判然とします。

次にスケルツォ第4番ホ長調作品54の自筆譜を見てください。グラフィカルな書き方の中でも、大きな意味を持っている例です。ショパンは常に2種類のアクセントの書き方を用いていました。まずpiu prestoと書いてあるところのアクセントを見てください。次にその下の段にあるアクセントを見てください。すごく大きく、長くなっていることが分かるでしょう。[実演]和音そのものに書かれているということでディミヌエンドではないということは分かります。こういう書き分けはショパンの全作品に渡って見られます。ナショナル・エディションではこの長いアクセントと短いアクセントの違いを、そのまま残してあります。書き分けるということは弾く人から見たら大きな意味を持つことになるからです。(普通の)短いアクセントはダイナミック・レンジにおけるアクセント、強く弾くという意味です。長いアクセントというのは、表情におけるアクセントという意味です。エスプレッシーヴォであったり、テヌートであったり、勿論アクセントそのものの意味も持っています。ピアノという楽器の特性は、打鍵してから音が減衰していく楽器です。長い音符をしっかり響かせようと考えた場合、最初に強く当てなければ響きがすぐに減ってしまいます。長い音符であれば、それなりのアクセントが必要となるでしょう。

スラーに関することをいくつかお話します。スラーというのは色々な意味を持つことができるものです。アーティキュレーションについて示すこともできるし、短い音にスラーを掛けることで手の動きを示すこともできます。モチーフであったりフレーズであったり、その文脈や全体を示したりというようにスラーの長さを使い分けることによって、その音楽(メロディー)がどう語っているか、短いモチーフなのか、一つの文章なのかを示し分けることもできるのです。ショパンは音楽を「話す」ことに例えるのが好きでした。響きよって音楽をするということと、言葉を使って喋るということは同じようなものであると常々考えていました。そして、スラーを用いることによってフレーズを分けるのではなく、話すことを優先させてスラーを使いました。だから私たちはスラーがどう掛かっているのかを見る時に、それがモチーフを表すためだけに掛かっているものなのか、それとも一つの音楽に関して語り始めと語り終わりを示すものであるのか注意深く見るようにしましょう。スラーの最初の音は長いものでも短いものでもしっかりと示されています。しかし、終わりは文脈によって違います。例えば、ショパンの初期の作品群の場合、しばしば短いスラーを多用しています。それはフレーズ全体を網羅していません。レガートを止めるところとか、ここで手を上げるのだという風に書いてあることが沢山あるのに、それをフレーズの終わりであると勘違いして、私たちがそれを話し合ったりすると間違いということになります。

例8を見てください。これはマズルカロ短調作品33-4の冒頭部分です。このようなスラーの目的は、2小節単位のモチーフの終わりにある長い音符をしっかりと響かせてほしいという意味が込められています。長い音を弾いた後、そこでフレーズが終わると考えてほしくなかった時に、響きが続いて消えるところまでがフレーズであると思ってほしかったのではないかと考えられます。続いて例9を見てください。これはエチュード作品25-4イ短調です。例10はバラード第1番ト短調作品23の中の一部分です。ここでは、ショパンはテヌートという類いの意味合い、つまり長い音符はどこまで続くのか、ということを言いたいためにスラーを書いています。

良い原典版を求めて

私たちが良い原典版を探し求めるという気持ちは、原典版に限らず、当時の楽器について知りたい、あるいはその当時はどいういう服装をしていたのか知りたいという気持ち、つまり芸術的な意味における真実を知りたいという気持ちそのものであるでしょう。Urtextを手にするということは、真実を知りたい、真実に到達したいという気持ちの表れであると言えるでしょうし、それは芸術において最も大切であり、深いところにある本質的な気持ちそのものでもあります。作曲家の作品への「尊敬」そして、作曲家だけでなく、聴いてくださる方々への「尊敬」という気持ちもそこにはあるわけです。そして、こういう尊敬の気持ちというものは、責任感と結びついています。自分の感じていることと、自分の才能についても同じことが言えます。その再現する才能というのは神から恵まれたものであるのと同時に、義務でもあります。だからそれを無駄にしてはいけません。自分の気持ちを整理して、もっと発展させる、伸びていけるようにしなければならないのです。その演奏する才能のお陰で聴いてくださる聴衆の方々に「美」というものを伝えることができるでしょう。真実であるとか、尊敬の気持ち、責任感、それは倫理学的、道徳的なことから美そのものにつながっていくのです。「美学」、「倫理」、「道徳」というものは、本質的なことそのものです。ポーランドの最大の詩人の一人はこう言いました。「美の形は愛の形である」と。

ヨーロッパ文化というのは当然ショパンの音楽の中にも含まれています。これはキリスト教と深く関わっています。キリスト教でいう神様の教えの中で最も大事なものは、愛を伝えるということです。普遍的な意味で私たちが世界に対して思う事柄、その視点からあらゆるモラルに関する事、あなたが本当に心から神を愛し、本当に伝えてほしい自分の思い、考えすべてに対して自分を愛するように人も愛しなさい。この詩人の書いたことをもう一度繰り返すます。「美というのは愛によって形作られるもので、愛を感じ伝えることによって私たちの才能というのは育てられるものである」演奏家の使命

この視点から再現芸術の使命について言えることは、良い音楽を演奏するということは、聴き手の魂にポジティブな良い影響を与えるものだということです。ショパンの音楽は疑いなく美しい音楽でしょう。ショパンの音楽を聴くことによって私たちが受ける心の動きは、今日までのショパン受容の歴史においてもはっきりとしています。感動するということは事実であり、皆分かっているのです。モーリス・モクナツキはショパンのワルシャワ時代に出演したあるコンサートについてこのように表しました。「まったく悪意の無い、善良そのものの人間であり、音楽である。二面性、表と裏があるとか、何か信頼できないとか、そういうところがまったく無い演奏(音楽)である。」これを聞いて私たちは確信を持てるのではないでしょうか。それに疑いを持つ人がいるでしょうか。本当に信頼できて、それが良いものであったときに、それを信じ受け入れることで私たちの心は落ち着きを持つことが出来ますし、良い影響ばかりです。ショパンのパリ時代の友人でキュスティーヌ伯爵はこのように書きました。「(ショパンに対して)あなたはピアノを奏でているのではなくて、魂そのものを奏でているのですね。あなたのお陰で私たちはお互い理解し合うことができる。愛し合うことができる。」(1848年2月16日付けショパン宛の手紙)この引用はショパン自身の演奏そのものだけに留まらないのではないでしょうか。この手紙はショパン本人の演奏に対して言っているものですが、今生きている私たちにとっても、ショパン以外の他のピアニストが弾いた演奏についても当てはまることなのではないでしょうか。

原典版を使うことで得られる4つの事柄

ナショナル・エディションを作る上で最も大事な面は、ピアノを弾く人に対して、ショパンの意図、ショパンの書いたことすべてを最も満ち足りた形で正しく伝えるということです。その音楽の魂そのものに沁み渡るようなエッセンスをきちんと整理し楽譜で伝えることで、演奏する人にイマジネーションを与え、聴いて下さる人の心にすぐに届くようにとの願いを込めて楽譜を作っています。

最後にまとめとして、私たち弾き手が原典版を使うことで得ることができる4つの点について申し上げます。

1.作品に対して、また楽譜に書かれていること全部に対してアクティブで、また同時に冷静かつ批判的な面を養うことができる。
2.作曲家の様式というものを知ることができ、それと同時に自分の個性を育てることができる。
3.解釈(Interpretation)の最大限の可能性を持つことができる。何故なら、第三者や編集者によって勝手な変更をされたり書き加えられたものが一切無いからです。
4.自分のインスピレーションというものを最大限にその作品に含まれる真実そのものに近づけることができる。そして、最大の力を持って聴き手に伝えることができる。

ですから、ショパンを弾こうではありませんか。ショパンを原典版で弾こうではありませんか。そして、そのショパンを最も良い原典版、つまりナショナル・エディションで弾こうではありませんか。本日はありがとうございました。

日本ピアノ教育連盟関東甲信越支部主催 マンスリーセミナーVol.12より
本文は財団法人 日本ピアノ教育連盟(JPTA)の承諾を得て掲載しております。

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