「長い序論のあとで彼は一小節一小節を分析してこれはただ普通にある変奏曲ではない、幻想的な絵画的な描写だといっています。第二ヴァリエーションはドン・ジョヴァンニがレポレロとかけまわるのだとか、第三はツェルリーナが接吻されていて、それを見て怒るマゼットを左手がえがいているのだとか、−またアダージオの第五小節では変ニ音がドン・ジョヴァンニがツェルリーナと接吻するのをあらわしているのだと彼は主張するのです。*プラーターは昨日、彼女の変ニ音はどこだなどと尋ねる始末です!このドイツ人の創造にはほんとうに死ぬほど笑った。」
(ショパンよりティトゥス・ヴォイチェホフスキに 1831年12月12日パリ。『ショパンの手紙』小松雄一郎訳、白水社より引用)
*Ludwig Plater:ショパンがパリに着いた頃の知人
この手紙はショパンの作品、「(ピアノとオーケストラのための)モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》の〈ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ〉による変奏曲 変ロ長調 作品番号2」について書かれています。ショパンの伝記でも度々引用される有名な手紙です。この手紙について補足すると、1831年の暮れ、パリに着いたばかりのショパンの元に作品2の変奏曲に関する10頁もの論文が届きました。送り主はカッセルにいるドイツ人。論文の内容は上記の手紙の通り。ショパンはそれを読んで「死ぬほど笑った」ということです。
この作品2の変奏曲には、ある有名な評論文が残されています。1831年12月7日『一般音楽時報(Allgemeine musikalische Zeitung)』で発表されたロベルト・シューマンの「作品2」というタイトルの評論がそうです。「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」という有名な言葉で知られるこの評論は、シューマンの確かな鑑識眼、先見の明を表しているといえるでしょう。シューマンはこの評論で、当時ドイツの楽壇においては無名の新人であったショパンを見いだし、それから約20年後に発表された最後の評論においても、やはり名も無き新人であったブラームスを世に送り出しています。シューマンは「作品2」の評論で、彼独特の文学的な表現を用いて熱烈な賛辞をショパンに送りました。しかし、残念なことにシューマンのこの評論は一般音楽時報の発行人の意向で掲載時に大幅に削除されたそうです。
上記の手紙が伝記の中で度々引用される理由は、シューマンのこの評論との内容的な関わりもそうですが、変奏曲のテーマが有名な作品からとられているということと、手紙の内容が若きショパンの〈音楽観〉を表しているからだと考えられます。そして一部の伝記作家たちは概ね次のように紹介してきました。
- 上記の手紙にある評論の送り主はロベルト・シューマンである。
- シューマンの評論に対してショパンは嘲笑の意を手紙に書き友人に送った。
- シューマンはショパンを尊敬していたが、ショパンはシューマンを尊敬していなかった。
少なからず影響力があると思われる「ショパン研究家」と呼ばれる人たちの多くが、シューマンの悪口を書いたのです。何も知らない読者はそれを読みショパンはシューマンより優れている、偉いんだなどと純粋に信じたかもしれません。では、この研究家・伝記作家たちの言うとおりショパンはシューマンの評論を本当に嘲笑ったのでしょうか? まずその真否を確かめるために上記の手紙に書かれている内容とシューマンの評論文を比較してみることにしましょう。
(以下シューマンの評論文はシューマン著『音楽と音楽家』吉田秀和訳、岩波文庫より引用)
ショパンの手紙: | シューマンの評論文: |
第二変奏=ドン・ジョヴァンニがレポレロとかけまわる | 第二変奏=二人の恋人はさかんに追いかけあっては、高笑いに興ずる |
第三変奏=ツェルリーナが接吻されていて、それを見て怒るマゼットを左手がえがいている | 第三変奏=あるのはただ月の光と妖しい美しさだけだ。マゼットが遠くの方から、聞こえよがしに彼を罵るけどドン・ジュアンは一向ひるむ気色がない |
第五変奏=変ニ音がドン・ジョヴァンニがツェルリーナと接吻するのをあらわしている | 第五変奏=高く鳴らされた変ロ長調の和音が、最初の愛の接吻を見事に描いている |
以上が作品に関して書かれた部分の比較になります。確かによく似てはいますが、これだけの違いがあるなら別物と考えるべきではないでしょうか。
もう一つの疑問点、それはショパン自身この手紙の中で「カッセルにいる一(いち)ドイツ人から10頁もの論文が届いた」と書いているのですが、シューマンはこのときライプツィヒにいました。もし、これも伝記作家たちの言うことが真実であるとするなら、シューマンがわざわざ西に200キロも離れたカッセルまで出向き自分の評論を郵便局から送ったことになります。この不自然な行動については一切説明がありませんし、シューマンの伝記を調べてみても1831年前後にカッセルに行ったという記録は残っていません。では何故、伝記作家・ショパン研究家である先生方がこのような単純な間違いを犯してしまったのでしょう。
まず、参考にした資料云々の問題ではないということを断っておきます。時代考証も無しに勘で書いたりはしないでしょう。これはむしろ物書きとしての姿勢に問題があるのではないでしょうか。恐らくこの間違いを犯してしまった先生方は、主役と同じ分野で活躍する人物とを単純に比較し、主役の優れている点を強調したかっただけなのかもしれません。ただそれが行き過ぎてしまった。行き過ぎてしまったとはいえ、自らの研究を放棄し、安易に有名なシューマンの名を借りて、その名誉を汚し侮辱するといった行為はあまりにも破廉恥で卑劣であると言えます。
この送り主についての間違いだけならまだしも、ショパンはシューマンを尊敬していなかったと言い放つなど妄想も甚だしく、あまりにも身勝手な偏見であると言わざるを得ません。ショパンを尊敬していたはずのシューマンはただの一度もショパンをパリまで訪ねたことがないのに対して、ショパンは尊敬していないはずのシューマンをわざわざ2度もライプツィヒまで訪ねているという矛盾についてはあっさりと目をつぶっています。はたして自分の作品に好意を寄せてくれた人間に対し、敵意を持つ人間がいるのでしょうか。もしくはショパンがそういう性質の人間だったとでも仰りたいのかもしれません。この倫理に疎い研究家や作家たちが全く自己流に解釈し、都合の良いように書き連ねた本は現在も書店に並び、多くの純粋な読者を騙し続けています。これはもはや事故とよべるレベルの話ではないでしょうか。
では、この「カッセルのドイツ人」は一体誰だったのでしょう。これはシューマンの師匠であり義父であるフリードリッヒ・ヴィークだったという説が現在では有力です。詳しい経緯はナンシー・B・ライクの著書『クララ・シューマン』に書かれています。ショパンが書いた手紙に則して抜粋すれば、この論文はヴィークの妻の兄(義兄)エドゥアルト・フェルヒナー経由でショパンの手に渡り、ショパンの校正後『ルビューミュジカル』誌に掲載を依頼する予定でしたが、友人のヒラーがショパンの気持ちを察してそれを止めたということです。この本にはヴィークがフランクフルトから論文を送ったと書かれていますが、原田光子さんの著書『真実なる女性 クララ・シューマン』には1831年秋から翌年にかけてのクララの演奏旅行に付き添ったヴィークが途中、立ち寄ったカッセルからこの手紙を送ったことが書かれています。シューマン側の研究家からはシューマンがカッセルに居た事実などはなく、それ以外の人物の行動が時系列で挙げられているのです。
いつの時代も芸術家の真の姿を求めるのに変わりはありませんが、今もなお伝記作家、研究家たちの手によって事実が曲げられ伝えられているというのは何とも皮肉な話であり残念でなりません。人の悪口を平気で言う人間も馬鹿なら、それを喜んで真似している人間も馬鹿です。これ以上、シューマンの名誉と共に、ショパンの名誉を傷つけるような真似だけはしないでほしいと願わずにはいられません。